交通事故遺族の思い

2012年04月26日 · 未分類

京都の少年無免許死亡事故でまた京都府警の不祥事が報道された。事故当日夜に府下警察署長会議終了後の飲酒懇親会で、交通部幹部が飲酒したのは軽率だった、と会見をしたばかりなのに、今度は被害者の携帯番号などの情報を少年の父親に教えていたという不祥事である。交通事故遺族の思いというものが分からないのだろう。怪我をした方の思いが分からないのだろう。府警・警察本部に犯罪被害者対策室などという部署を設けて、室長警視以下5~6名の警部・警部補・巡査部長などを配置させただけで、犯罪被害者の対応を充実させた、と組織的に完全な体制と思い込む程度の薄っぺらな認識の表れである。冗談ではない。交通事故当日に飲酒懇親会を開いたことに対する報道では、「飲酒は捜査指揮に影響を与えていない」と言っているがこれも交通事故遺族の思いを全く理解していないからである。本部長指揮事件であろとも実際に交通事故を処理するのは第一線の現場の警察官であり、交通部長であろうと本部長であろうと飲酒酩酊しても捜査の進捗にはまったく影響しない。では何が非常識であるのか?確かに固有の遺族感情であり理解しがたいことだろうが、当たり所のない絶望の悲しみと必死に向かいあっている時に、重大事故の捜査をしている警察の一部の者が、飲酒に興じていた、という事実が信じ難い出来事なのである。
今回は、亡くなられた方が使用していた携帯電話に被疑者の父から着信があったということである。電話をした父親が悪いのではなく、遺族の気持ちに軽率過ぎる、いや全く理解していない担当警察官の配慮の無さである。被害者のお父さんは、携帯電話は遺品としていつまでもとっておくつもりでいたのに、捨てろということか、と怒りをあらわにしているが、本当にそのとおりである。
柳原三佳さんの著書、遺品あなたを失った代わりに、を読んでみるがいい。何年も捨てられない冷凍餃子、取れこめない洗濯物、たばこの吸い殻、これらが遺族の想いである。愛する人が最後に見た景色をいつまでも大切にしたいと思う気持ち・・・・
遺族の痛みを理解できない者には、人の死を扱う職務を全うできる筈がないしその資格がない。
私が警察という組織を離れようと決意させたのは、
息子の死をただ待つしかできない生き地獄の中にいた時、職場の上司から「明日も年休でいいですか?年休届書いておきますから」という電話を受けたことでした。
自分の職務上の責任を果たすため、いや責任を逃れるためには、他人の心の痛みなど考えずに行動する組織に耐えられなくなりました。
私の心の弱さだったのか、まだ答えはありません。

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